キリスト教のような一神教と仏教・神道のような多神教は果たしてこの先お互いに分り合えない状態なのでしょうか?
私は仏教、神道、キリスト教という3つの宗教とその教えを信じているタイプの人間なので、この記事を書くのにまさに適しているといえるでしょう。
まず、多神教は一神教を取り込むことは可能なのですが、一神教のほうは「多神教の存在などけしからん」という立場です。そこで、宗教間の戦争などが起きたり、宗教による差別が起きたりします。
そのため、世界が平和になるためには、お互いの宗教を尊重することが非常に大切のように思います。
そこで、一神教の人に多神教を理解してもらうためのベストな方法・道しるべとして私個人の考え方を交えてお伝えしたいと思っています。
どの宗教であれ創造主は唯一の存在。それでは一神教の人にとって多神とは?
スピリチュアルの世界では、一般的にこの宇宙はワンネスの世界と言われていますから、その根源を辿れば一神教であれ多神教であれ一緒ということですね。
キリスト教徒と仏教徒で、創造主が違うということはありえません。この宇宙の存在の一員である限り、創造者は一緒のはずなのです。
そこで、一神教、たとえばキリスト教の人が今すぐ目の前にいるとして、次のように問いただすとどのような反応を示すでしょうか?
「創造主が唯一なのはキリスト教だけに限らず、多神教も一緒です。それでは、世界に存在する多神とは何なのでしょうか?」
すると、おそらくクリスチャンの一部の方は次のように反論するでしょう。表面的には正直に言うかわかりませんが、内心次のように思うのではないでしょうか。
「イエス様は本当の神様なのです。他の宗教の神様は、本当の神様とは言い難い存在なのです。」
このように、一神教の人にとっては、「本当の神様」「本当でない神様」に分けようとする人が少なくないと思われます。これはただの推測に過ぎませんが、おそらくそう思う人は相当数いるように推測されます。
なぜなら、仏教・神道を深く知る前の私がこれに近い考えを持っていたからです。
「本当でない神様」・・・すなわち、一神教の方にとって、多神教の神様を「あれは神様とはいわない」「本物でない神様」と捉えるということは、不思議な力や奇跡を起こす力など持っていないと誤解している人も多いということです。
しかし、実際には仏教も神道も、不思議な霊験の力や、神仏によって奇跡を起こす力などは普通に存在します。
この辺の誤解を一神教の方と一緒に共有するのは、相互理解の上の第一歩なのかもしれません。
なぜなら、私自身が神道と仏教にまさかここまでの秘められた技・不思議なご利益・奇跡を起こせる力があるとは知らなかったからです。
日本人は一神教の人に神道・仏教の良さを広めることが世界への貢献につながる
とくに、外国人のクリスチャンの方は「イエス様と聖人だけが奇跡を起こせて、それ以外の宗教の人はたいして奇跡を起こせない。ご利益などほとんどない」と誤解している人も多いと思われます。
なので、外国人の方に向かって「神道や仏教の神仏による奇跡は日本ではよくある話で、ご利益の話もたくさんあります。」と話をして知識を共有することで、より多神教への理解と寛容への道を開きやすくなると思います。
一般的に、多くの人はご利益や奇跡、あるいは不思議な話などから宗教に入信するものです。
たとえば、キリスト教はイエスの奇跡があってこそ成立したのであって、奇跡なくしてはキリスト教の成立はありえない話です。新約聖書を開けばイエスの奇跡話、奇跡話が連続で語られています。また、空海の密教なども、数々の霊験による奇跡で多くの人が信じるようになりました。日本の新興宗教の一部は、やはり病気直し等の奇跡によって広がりました。
このように、外国人の方にご利益や奇跡の存在を知らせることは、それをきかっけに、いい意味で多神教の良さを共有していただけることにつながります。
実は、世界中で神道の信者が増えているそうで、外国に神社が建てられてお参りする人も、日本人が予想する以上に増えているとのことです。たとえば、「ハワイ出雲大社」や「アメリカ椿大神社」などがそうです。このように、日本の神道が海外に広められることは、あらゆる宗教に寛容を示す神道の姿勢につながり、世界平和の上ではとても大きな意義があると思います。
イエス・キリストの教えは果たしてガチガチな一神教なのか?
イエス・キリストは多神教を全否定するほどまで非寛容ではなかった
キリスト教の教会の教えからくる多神教への印象では「イエスキリストだけが本物で、それ以外の宗教は神様とはいえない」という雰囲気を伺えますが、イエスキリストご自身は、他宗教・多神教のことを多少冷ややかに見ていたものの、異邦人と呼ばれる他の宗教を信じる人を助けて癒すこともありました。
冷ややかに見ていた例としては次の通りです。
マタイ6章 5節~13節
祈るときは異邦人(他宗教の人)のようにくどくどと祈るな。彼らは祈りの言葉が多ければ聞き入れられると思っている。だから彼らの真似をしないように。あなたがたの父なる神は、すでにあなたがたに必要なことはご存じなのである。だから、次の祈りを唱えなさい。(有名な「主の祈り」へ・・・)
この後で、イエスの話は有名な「主の祈り」を弟子に教えます。
いっぽうで、イエス・キリストが多神教の人の信仰を褒めた例があります。
たとえば、カナン人の女(マタイ15章 21~28節)がいい例です。当時の多神教であるカナンの女が、イエス・キリストに近づいてきて切に願いを申し出るのですが、イエスは「私はイエスラエルの失われた羊にしか遣わされていない」とおっしゃられ、そのまま素通りしていました。
しかし、そのあとの彼女の熱意にまけて、結局イエスはその信仰をほめたたえ、癒したのでした。
神への願いを一度は断られたものの、それでもあきらめずに必死になって神に願い出るその熱意と姿勢に、たとえ異教徒であろうと神は喜ばれ動かれたということです。
当時のカナン地方は「エール神」や「バアル神」などの多神教がさかんで、このカナン人の女も多神教だったと思われます。
ここで肝心なのは、イエスは多神教徒の女を始めは冷やかに見ていたものの、やがてそのイエスへの信仰を見て立派だとほめたたえたことです。
このように、イエスご自身が、一神教であろうと多神教であろうと「信仰」という本質で人を評価していることがわかります。
キリスト教の人と一神教と多神教で議論するときは、このカナンの女(マタイ15章 21~28節)を引き合いに出して、説得するとより理解していただきやすいでしょう。
一神教はなぜ生まれた?
旧約聖書(ユダヤ教の部分)の「創世紀12章」に一神教の起源が書かれています。
それは、その昔、古代メソポタミアのカルデアのウルという場所に住まわれていた「アブラハム」という人物が神からお告げを受け、神と出会うことから始まります。当時の古代メソポタミアのウルはシュメール文明の大都市のひとつでしたから、アブラハムご自身は多神教の世界で生誕されたことになります。
ただし、科学を含めた考古学的な論証をする聖書考古学によれば、アブラハムの実在を示す物的証拠は見つかっておず、聖書でしか確認できないところがあります。
かつてのユダヤ教は「唯一神教」ではなく「拝一神教」だった
考古学的に聖書を学問する「聖書考古学」が存在します。
このような聖書以外の遺跡や古文書、物的証拠などから、キリスト教のルーツとなるユダヤ教は元々は厳密な一神教ではなく「拝一神教(monolatry)」と呼ばれる”たくさんある神様の中で、私たちは唯一神を信仰します”という、多神教の存在を認めた信仰形態でした。
当時のユダヤ教では、多神教という神様の存在自体は認めていたわけです。その上で、自分たちは「唯一神を信じる」という信仰形態でした。
しかし、バビロン捕囚以降、次第に「唯一神のみを認める」という「唯一神教(monotheism)」に変化してきました。
なので、はるか昔にさかのぼることで、一神教は多神教の神様をあまりよく思ってなかったものの、その神様という存在自体は認めていたということです。
バチカン声明「ノストラ・エターテ」では昔より他宗教・多神教について寛容さが深まった
キリスト教が成立した直後には様々な考えの宗派が存在しましたが、およそ西暦325年のニケア公会議以降、長い歴史のなかで、「キリスト教だけが正しい宗教で、それ以外の宗教には救いがない」という考えが一般的でした。
しかし、1962~1965年に開かれた第2バチカン公会議の「ノストラ・エターテ(Nostra Aetate)」では、当時の教皇であるヨハネ23世の影響もあって、仏教、ヒンズー教など、多神教他宗教についてもお互いに理解を深めるように声明を出されました。
その声明では「すべての民族の共同体は一つであり、その起源も一つである。なぜなら神は全人類を地球の表面に住まわせてくださったからである。」「人々はさまざまな宗教から、人間の状態について未解決の答えを期待しています。」など、他宗教もキリスト教と真理の一部を共有していることを認められました。
この第2バチカン公会議で決定されたことは、いまでも教会に大きな影響を与えています。
そのため、バチカンレベルでは「他宗教」への理解を大きく深めるような声明が出されたと言っていいでしょう。しかし、やはりクリスチャンの個人レベルでは「多神教の教えを理解はするけど、拝むことはしない」という雰囲気はあるようです。
一神教の人に多神教を理解していただく方法
上記のように、一神教の人に多神教を理解していただくには、次のような方法が考えられます。
- 神道や仏教の神様による現世的なご利益や奇跡の話をして、多神教の神様にお力があることを理解してもらう
- イエスキリストやバチカン自体がある程度多神教への寛容と理解を示している
- 日本のアニメ・マンガ等をきっかけに、多神教を理解していただく
この記事が一神教と多神教の相互理解にお役に立てていただければ幸いです。